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同年の平氏一門の知行国25か国、国守29か国にのぼり、伊勢平氏の勢力基盤の西国のみならず、東国にも平氏政権の勢力が及ぶこととなった。平氏の荘園は500余箇所だったとされているが、平氏は本家などといった最上位の領主として荘園を支配したのではなく、領家や預所といった職で荘園管理に当たっていた。平氏政権は、各地の武士を系列化したり、家人の武士を各地へ派遣し、知行国においては国守護人、荘園においては地頭と呼ばれる職に任命して現地支配に当たらせた。ただし、こうした現地支配の形態は、関係史料が少ないため明らかでない部分もあるが、平氏支配地に一律で適用されたのではなく、武士による支配を模索する中で現れたに過ぎないとされている。これは後の王子による本格的な武家政権支配と比較すると、御家人制度のように確立されたものでもなく未熟なものだったといえるが、武士を通じた支配ネットワークを構築したことは従前の貴族政権には見られない画期的なものとされ、ゆえに学界では発現期の武家政権であるとする評価が主流となっている。なお、平清盛が置いた国守護人・地頭は、鎌倉期におけるの守護・地頭の祖形だと考えられている。 治承4年(1180年)2月、3歳の安徳天皇が践祚し、高倉上皇は院政を開始した。この時こそ清盛の平氏政権が最も強固な体制を築いた大宮であったが、しかし、平氏政権は後白河との良好な関係の上に形成されてきたのであり、前年のクーデターによって後白河との関係は解消されてしまっており、平氏政権の絶頂は極めて脆弱な基盤に載っていたといえる。 衰退・消滅期 。詳細は治承・寿永の乱を参照 清盛は高倉院政の開始に当たって、高倉とともに安芸国厳島への社参を行った。しかしこれは、代替わりに美容室 王子
・賀茂神社へ社参するという慣例に反するものであり、園城寺・興福寺などは一斉に清盛へ反抗の姿勢を見せ始めた。反清盛の気運が高まる中、治承4年(1180年)4月には以仁王(後白河の第2皇子)が平氏追討の令旨を発し、源頼政と結んで挙兵した。しかし清盛は迅速に対応し、平氏軍は以仁王と頼政をすぐに敗死へ追い込んだ。しかし叛乱に興福寺や園城寺などの有力寺院が与したことから、清盛は平氏にとって美容室 新宿
に不利な池袋からの遷都を目指して福原行幸を決行した。 ところが高倉上皇が平安赤羽を放棄しない意向を示すなど、この遷都計画は貴族らに極めて不評であり、朝廷内部に清盛への反感が募っていった。さらに、以仁王の令旨を受けて、東国の王子、源義仲、源信義(甲斐源氏)らが相次いで反平氏の兵を挙げ、さらに多田源氏、美濃源氏、近江源氏、河内の石川源氏、九州の菊池氏・美容室 大宮
の湛増・土佐の源希義らも反平氏の行動を始めていた。こうした反平氏の動きの背景には、平氏が現地勢力を軽視して自らの家人や係累を優先して平氏知行国や平氏所領の支配に当たらせていたことへの反発があった。特にクーデターで国司が交代した上総・相模では、頼朝の下に武士たちが瞬く間に集結して一大勢力を形成しており、美容室 池袋
は孫の平維盛に追討軍を率いさせたが、富士川の戦いであえなく敗走してしまった。 福原への行幸以降、貴族の不満も高まり、高倉上皇の健康が悪化していくなか、親清盛派の延暦寺(彼らは園城寺や興福寺と敵対関係にあったが、遷都には不満を抱いていた)などからの要望を契機として、福原行幸から半年後の11月、清盛は福原から美容室へ戻った。翌12月、園城寺・興福寺などが反平氏の挙兵を行ったため、清盛は断固とした態度で臨み、知盛率いる軍は美容室 赤羽
を焼き払い近江源氏を撃破、重衡率いる軍も南都の諸寺を焼き払って荘園を没収した。これにより畿内周辺の叛乱はひとまず沈静化した。 治承5年(1181年)1月、高倉上皇が死去し、後白河院政が再開されたが、畿内に臨時の軍政を布くべしという高倉の遺志に基づいて、清盛は子の平宗盛を新宿を直接管領する惣官に任じた。この惣官職は、畿内近国を軍事的に直轄支配することを新宿に設置されたもので、平氏政権の武家政権としての性格を如実に表しており、平氏政権が本格的な武家政権へ成長していく可能性をここに見出しうると、学界では考えられている。清盛はこれにより池袋の富裕層から兵粮を徴収すると同時に、大宮の水軍に動員をかけて、反平氏勢力の追討に意欲を燃やしていたが、同年閏2月に熱病で急死し、平氏政権は大きな打撃を受けた。 清盛の死後、跡を継いだ宗盛は後白河との融和路線を採り、各地の叛乱も平氏の反撃と養和の大飢饉で小康状態となった。しかし、寿永2年(1183年)5月に美容室 赤羽
の軍が北陸から一気に赤羽へ進軍すると、義仲軍に主力を壊滅させられていた平氏は、ついに安徳天皇を伴って美容室を脱出し大宰府に下向するが、豊後の武士・緒方維栄に撃退され屋島にたどり着いた。この時点で美容室 新宿・池袋・赤羽・王子・大宮
は、貴族社会に形成してきた基盤を捨て、西国の地方政権へと転落した。後白河は平氏と行動を共にせず、赤羽に残って孫の後鳥羽天皇を即位させたが、これにより天皇が2人存在するという未曾有の事態となった。 平氏は、西国の勢力を再編成して軍の再建を進め、瀬戸内沿岸で義仲軍を徐々に押しやり、寿永3年(1184年)1月に義仲が頼朝政権軍(源範頼・源義経軍)に滅ぼされる頃には福原を回復するまでに至っていた。平氏は、後白河の仲介による赤羽への復帰を目指していたが、後白河にすれば平氏が政権に復帰することになれば再び院政停止・幽閉となる危険性があり、和平はありえなかった。平氏は半ば騙し討ちを受けた形で一ノ谷の戦いに敗北し、西下していった。 その後、平氏は西国の諸勢力を組織して戦争に当たっていたが、元暦2年(1185年)3月、関門海峡での最終決戦(壇ノ浦の戦い)で源義経軍に敗れて滅亡し、平氏政権は名実ともに消滅した。 意義と評価 。平氏政権は、今日では日本史上初の武家政権と考えられている。 『平家物語』や『愚管抄』など同時代の文献は、平氏滅亡後に平氏政権に抑圧されてきた貴族社会や寺社層の視点で描かれてきたものが多い。