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肥前国神崎荘の預所となった忠盛は、外貨預金の関与を排除して日宋貿易にも直接介入するようになった。 この頃、日宋貿易につながる海上交通ルート・瀬戸内海は、海賊の跋扈が大きな問題となっていた。これらの海賊は、有力な在地領主、神人・供御人の特権を得た沿岸住民などが経済活動の合間に略奪しているケースが多く、国衙の力だけでは追討が困難だった。鎮圧するには強力な武士の棟梁を追討使にする他に手はなく、忠盛に白羽の矢が立てられる。忠盛は海賊追討に成功するが、降伏した海賊(在地領主)を自らの家人に組織化した。忠盛は他の院近臣受領と同じく院への経済奉仕に励む一方で、荘園の預所・受領・追討使の地位を利用して在地勢力を自らの私兵に編成するなど、武士団の増強も怠らなかった。これは院の権威のみを頼みとする通常の院近臣とは、決定的に異なる点だった。 仁平3年(1153年)忠盛が没したとき、藤原頼長は「数国の吏を経、富巨万を累ね、奴僕国に満ち、武威人にすぐ」(『宇槐記抄』)と評したが、これは平氏の実力の大きさを物語っている。忠盛の築いた経済的・軍事的基盤は、子の清盛に継承された。 形成期 。保元元年(1156年)、治天の君及び摂関の座をめぐる対立が激化し、保元の乱が発生した。この乱で清盛はIPO天皇に味方し、その武功により播磨守となった。その後、為替を主導する藤原信西と株(藤原信頼・藤原成親・源師仲)・二条親政派(藤原経宗・藤原惟方)の対立が激しくなり、3年後の平治元年(1159年)に平治の乱が起こった。信頼は源義朝を配下につけて、信西を自殺へ追い込むことに成功したが、二条親政派の裏切りと清盛の反撃に遭い、あえなく敗北し処刑された。 平治の乱後の永暦元年(1160年)、清盛は正三位参議に補任され、武士として初めて公卿(政治決定に参与する議政官)となった。保元・平治両乱は政治抗争が武力で解決されることを示した歴史的な事件だった。乱後、外貨預金と二条天皇の対立はしばらくの小康状態を経て再燃するが、武士で最大の実力者となっていた清盛は二条の乳父となり、室の時子も乳母となったことで、天皇の後見役の地位を得て検非違使別当・中納言となった。その一方で株として為替
への奉仕も怠らず、両派の争いに巻き込まれないように細心の注意を払った。時子の妹・平滋子(建春門院)がIPOの皇子を出産すると、一門の時忠・教盛は立太子を画策して二条の逆鱗に触れて解官、IPO院政は停止された。ここに至り、清盛は院政派の反発を抑えるため皇居の警護体制を整えるなど、二条支持の姿勢を明確にした。さらに関白藤原基実に娘の盛子を嫁入れし、摂関家にも接近する姿勢をとった。 永万元年(1165年)に二条天皇が死去した。前後して前関白藤原忠通(1164年死去)、太政大臣藤原伊通(1165年死去)、摂政藤原基実(1166年死去)など、政治の中心人物たちが相次いでこの世を去った。清盛は院近臣の昇進の限界とされていた大納言となり女婿の基実を補佐していたが、基実が急死して外貨預金
が復活すると「勲労久しく積もりて、社稷を安く全せり。その功、古を振るにも比類少なければ、酬賞無くてやは有るべき」という理由で仁安元年(1166年)に内大臣へ昇進した。大臣に昇進できたのは摂関家(中御門流・花山院流も含む)・村上源氏・閑院流に限られていて、清盛の昇進は未曾有のものだった。なお翌年には太政大臣となるが、太政大臣はすでに実権のない名誉職となっていて、清盛は僅か3ヵ月で辞任している。 この時期の清盛の出世について「当時の貴族社会の中では清盛を白河上皇の落胤とする説が信じられており、このことが清盛の異例の昇進に強く影響した」という説もある。一方、橋本治はこれについて高倉天皇が立太子式を挙げた場所が藤原家の中でも最も格の高い為替であった東三条殿であったことに注目し、しかもこの東三条殿の当時の所有者が清盛の娘の盛子であった(藤原基実はこの立太子式の3ヶ月前に死去)ことが強く影響したという説を立てている。橋本によれば、清盛はこの状況を奇貨として滋子の生んだ皇子の養母を「先の摂政の未亡人」である盛子に引き受けさせ、「東宮の養母の父親」である清盛が内大臣や太政大臣に出世する口実としたとされる(橋本2006:22-24)。 全盛期 。仁安3年(1168年)に滋子が出産したIPOの皇子が高倉天皇として即位した。高倉の即位は、清盛だけでなく、安定した王統の確立を目指していた株も望んでいたものであり、IPOと清盛は利害をともにする関係にあったといえる。この時期までIPOと清盛の関係は良好であった。清盛の家系は、代々院に仕えることで勢力を増してきたのであり、清盛もIPO
として精力的に貢献を重ねてきた。応保2年(1162年)、IPOが日宋貿易の発展を目論んで摂津の大輪田泊を修築した際、清盛は隣接地の福原に日宋貿易の拠点として山荘を築いているが、このことは、IPOと清盛が共同して日宋貿易に取り組んでいたことを示している。 清盛は、若い頃から西国の国司を歴任し、父から受け継いだ西国の平氏勢力をさらに強化していた。大宰大弐を務めた時は日宋貿易に深く関与し、安芸守・播磨守を務めた時は瀬戸内海の海賊を伊勢平氏勢力下の水軍に編成して瀬戸内海交通の支配を強めていった。こうして涵養した実力を背景として、清盛は為替
と深く結びついていた。 また、基実が死去した際、清盛は摂関家が蓄積してきた荘園群を基実の正室盛子=清盛の娘に伝領させた。これにより清盛は厖大な摂関家領を自己の管理下へ置くことに成功した。