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また先祖の源頼義が京都郊外の石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮を北の山麓に移し、父義朝の菩提を弔うための勝長寿院の建立を行うなど整備を続け、鎌倉は後の鎌倉幕府の本拠地として、発展を遂げる事となる[9]。 10月16日、頼朝追討の宣旨を受けた平維盛率いる数万騎が駿河国へと達すると、これを迎え撃つべく鎌倉を発し、翌々日に黄瀬川で武田信義、北条時政らが率いる2万騎と合流する。20日、富士川の戦いで維盛軍と対峙するが、撤退の最中に水鳥の飛び立つ音に浮き足立った維盛軍は潰走し、頼朝軍はほとんど戦わずして勝利を得た。翌日には上洛を志すが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らは常陸源氏の佐竹氏が未だ従わず、まず東国を平定すべきであると諌め、頼朝はこれを受け容れ黄瀬川に兵をかえした。この日、奥州の藤原秀衡を頼っていた異母弟・源義経が参じている[9]。 帰途、夜行バス
で初めての勲功の賞を行い、捕えた大庭景親を誅すると、佐竹秀義を討つべく再び鎌倉を発し、11月4日に常陸国府へと至る。戦いは上総広常の活躍により秀義を逃亡させ終わった(金砂城の戦い)。頼朝は秀義の所領を勲功の賞に充て、鎌倉へ戻ると和田義盛を侍所の別当に補す。侍所は後の鎌倉幕府で軍事と警察を担う事となる[9]。 頼朝寄進江島神社奥津宮鳥居治承4年(1180年)末までには、九州筑紫地方、四国伊予の河野氏、近江源氏、甲斐源氏、信濃源氏らが反平氏の挙兵をし、全国で反平氏の活動が活発となる[17]。平氏も都を福原から夜行バスに都を移して反撃に転じ近江源氏や南都などの畿内寺社勢力を鎮圧する。しかし養和元年(1181年)に入ると、肥後国の菊池高直、尾張国の源行家美濃源氏らも平氏打倒の兵を挙げ反平氏の活動はより一層活発化した。その混乱のさなか閏2月4日、平清盛が熱病で世を去った[18]。全国的な反乱が続く中、平家は兵を派遣して美濃源氏を鎮圧し、ついで清盛五男の高速バス
は尾張以東の東国征伐に向かう。重衡は行家らを伊勢と尾張の国境墨俣川の戦いにて打ち破り尾張を制圧するが、それ以上は東に兵を進めず都に戻った[19]。 7月頃、頼朝は後白河法皇に「全く謀叛の心無し。昔のごとく源平を共に召し仕うべきなり」との書状を送るが、清盛の後継者宗盛は清盛の遺言を理由にその和平提案を拒否した[17]。その一方で奥州の藤原秀衡を陸奥守に任じ、秀衡に夜行バス
を期待する[17]。一方その頃平氏の攻撃の矛先は頼朝ではなく、養和元年(1181年)6月の横田河原の戦い以降活発化した若狭、越前などの北陸反乱勢力に差し向けられることとなった[17]。また、遠江には未だ独立的立場をとる安田義定がおり頼朝が平氏勢力と直接対峙することはこの時期なかった。しかし、北方に勢力をはる奥州藤原氏の動向はわからず頼朝は坂東から身動きのとれない状態が続く。翌年の寿永元年(1182年)は天候不順による養和の大飢饉により平氏は追討活動を行なうことできなかった。その年頼朝は伊勢神宮に平氏打倒の願文を奉じ、藤原秀衡の調伏を祈願し江ノ島に弁才天を勧請する[9]。また同年8月に妻政子が嫡男の源頼家を出産している[20]。 寿永2年(1183年)2月、常陸に住む叔父・源義広が21日に鎌倉を攻めるべく兵を挙げた。この頃、主な御家人らは平氏の襲来に備え駿河国に在ったため、対応に苦慮した頼朝はそれを小山朝政らに託し、自らは鶴岡八幡宮で高速バス
の戦いの静謐を祈る。朝政らは野木宮合戦で義広らを破り、逃げる義広の兵を頼朝の異母弟である源範頼らが討った[9]。頼朝は義広とそれに与した武士の所領を自らの御家人に与える。これにより関東で頼朝に敵対する勢力は無くなった。 義仲との戦い 。寿永2年(1183年)春、以仁王の令旨を受けて挙兵していた従兄弟の源義仲が、頼朝に追われた叔父の源義広・源行家を庇護した事により、頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。しかし、両者の話し合いで義仲の嫡子義高を頼朝の長女大姫の婿として鎌倉に送る事で合意し、和議が成立した[21]。 義仲は行家・義広と共に平氏との戦いに勝利を続け、7月に平氏一門が安徳天皇と共に都を落ちると、大軍を率いて入京し、後白河法皇に召され平宗盛ら平氏追討の命を得る。しかし寄せ集めである義仲の軍勢は統制が取れておらず、飢饉に苦しむ都の食糧事情を悪化させ、また高速バス
が皇位継承に介入した事により院や廷臣たちの反感を買った[17]。朝廷と京の人々は頼朝の上洛を望み、後白河法皇は義仲を西国の平氏追討に向かわせ、代わって頼朝に上洛を要請する。しかし10月7日、頼朝は使者を返して要請を断った。その理由として、一つは藤原秀衡と佐竹隆義に鎌倉を攻められる恐れ、二つは数万騎を率い入洛すれば京がもたないとしている。10月9日に朝廷は平治の乱で止めた頼朝の位階を復した。14日には東海道と東山道の所領を元の本所に戻しその地域の年貢・官物を頼朝が進上し、その命令に従わぬ者の沙汰を頼朝が行なうという内容の宣旨が下された(寿永二年十月宣旨)[17]。頼朝は既に実力で制圧していた地域の所領の収公や御家人の賞与罰則をおこなっていたが、それは朝廷からみれば非公式なものであった。寿永2年10月に宣旨が下されたことにより、当初「夜行バス
」と見なされていた頼朝率いる高速バス
は朝廷から公式に認められる勢力となった。 閏10月15日、頼朝の上洛を恐れる義仲は、平氏追討の戦いに敗れると京に戻り、頼朝追討の命を望むが許されず、11月には頼朝が送った源義経率いる軍が近江国へと至る。平家と義経に挟まれた義仲は、院を攻め後白河法皇を拘束すると、頼朝追討の宣旨を引き出し、寿永3年(1184年)1月には征夷大将軍(または征東大将軍)に任ぜられる。しかし20日に源範頼と義経は数万騎を率いて京に向かい、防ぐ義仲は近江国粟津で討たれた。 頼朝は鎌倉に在った義高の殺害を企て、これを大姫が義高に伝えると、4月21日に義高は女房に扮し鎌倉を逃れた。頼朝は怒って追手を発し、24日に武蔵国入間川原で義高を討つ。大姫は嘆き悲しみ、憤った母の政子は義高を討った家人を梟首するが、大姫はその後も憔悴を深め、後にわずか20歳で亡くなる事となる。 平氏追討 。